さとり世代「ぬくこ」の叫び!~尊厳溢れる令和の時代へ~

人と人が分かり合えず、戦争が絶えない 人類の究極の問題にメスを入れ、世界基軸教育による心の時代、令和Cityを構築しています^^ 認識が世界を変える。

“一期一会” という名の出会い、そして別れ。

もう、新年明けて9日が経つ。びっくりするくらい、時が過ぎるのははやい。

この9日間でどれだけのドラマがあったのかと思うほど。

 

正月。

久しぶりに祖父母の実家に帰ったんです。

半年以上ぶりかな?私の中では1年以上ぶりの感覚だったから、正直いつ帰ったか覚えてないくらい。

もうね、帰るなり、「あら~。元気やったね?」って。

その言葉がね。嬉しくて。

 

祖父母のくしゃって笑った顔が、幸せそうで。

それがまた嬉しくて。

 

帰って、会えてよかったって。すごく思った。

 

 

そして、ふと感じた。

 

 

この笑顔と、このぬくもりと、私はあと何回出会えるんだろうって。

 

 

そんなことを感じてシャッターを押さずにはいられなかった。



 

できることならずっとこのまま見ていたい。

 

 

そのときにね、見つけたんです。

とある本を。

そして、この出会いに衝撃に、感動せずにはいられなかった。

 

もともと祖父は教師で、教育現場にいたことや、今でも子供たちに読み聞かせをしてることもあって、家の中は本の宝庫。なんだけど、その中でも

 

私の眼中に入ってきた「般若心経のこころ」その本の一章が、今年1年のキーともなる出会いになるとは、

そのとき思いもしなかった。

 

 

【一期一会】

 

あなたはこの本当の意味を知っているだろうか?

 

私は今までも、大切にしていきたいなと思いながら、歩んではきた。

ただ、私の解釈はこうだった。

ひとりひとりとの出会いを大切に、もしかしたら次会うことがないかもしれないから。

とまぁ、この程度。

 

しかし、本当の意味を知って驚いた。

 

もとは井伊直弼の「茶湯一会集」の中に出てくる言葉で、

政治家以上にこの方は茶人として、奥儀を極めた人という点でも著名であります。

生まれて長いあいだ、部屋住み(分家・独立せず親の家で留まること)で過ごし、埋木舎”という号をつけたくらい目立たない前半生を送った人です。

したがってこの「茶湯一会集」の中に出てきます一期一会という言葉も何かしみじみとした調子でございます。

彼は「茶湯一会集」の中でこう申しています。

 

そもそも茶の交会は、一期一会といひて、たとえば幾度同じ主客と交会するとも、今日の会に、再びかえらざることを思えば、実に我一世一度の会なり。

 

同じ私であり、同じみんなであり、同じこの会場であっても、今日のこの時間というのは、再びあることはない。それを、「今は、今しかない、今は帰ってこない、いまを大切に」と申し上げているのです。

「今」といっても、この一瞬はもう過去になりました。そして再び帰ってこない。

そういう人生の厳粛な出会いというものが “一期一会”なのです。

 

一瞬一瞬が“一期一会”で会った時が別れであるならば、自分の生き方も一瞬一瞬に決められていくのです。

そして、この“一期一会”という字は全て“一”なのです。

この“一”とは自然整数の一番始めな数字であり、一より始めるといいますが、同時に一という字はαであり、ωであり、全ては一に始まり、一に帰る一なのです。

たとえば、一年の始まりでもある一月一日。

この日を仏教では修正会と読んでいますが、一般にいう修正と同じであります。

どんな精密な機械でも、長いあいだには誤差を起こしますから、そこで修正しなければいけません。

私たちも長いあいだ生きておりますと、いろんなことがとかく出てくるわけです。

そこで修正するのが、一月一日というやはり“一”であります。と。

 

さらに、

もう少し一について考えてみたいので、次の詩をご紹介します。

 

たった一人しかない自分を。

たった一度しかない一生を

本当に生かさなかったら

人間生まれてきた

甲斐がないじゃないか。

 

生き甲斐がないとはどういうことなんでしょうか。

自分が生きるのですから、自分はたった一人しかいないのだということが一番大事なことなのだとわかりませんと、生きがいということはわかってこないと思います。

たった一人しかない自分が、今ここに生きている。

自分の一生というものは二度とないということが分かってくれば、

黙っていても生き甲斐というものはここにあるのだということがわかるでしょう。

生きているということが、すでに大きな救いということにもなってくるのです。

 

そして、

一期というのは、一生涯。

会というのは、合うということであり、めぐり会いとよく申します。

めぐり会い、ふれあい、出会い、かかわりあいいろんな言葉が浮かんできます。

しかし、そこにあるのは、

出会い「愛」があってこそなのです。

愛があってこそ初めて、めぐり会い、触れ合うのです。

そして、人とのめぐり会いも大事だけど、なんといっても一番大事なのは、自分が自分にめぐり会うということだと思います。

私たちは、大抵、この体が自分だと思っている。しかし、勝手にそう思い込んでいるだけに過ぎず、本当の自分というのは、エゴイズムの底に潜んでいるものなのです。

この純粋な人間性と申し上げてもいいと思うのでありますが、本当の自分にめぐり会うということが、最高のめぐり会いということになってまいります。

 

本当の自分に会うー言葉を変えて言えば、自分自身に目覚めることができたならば、もう再び自分から離れることはないのでしょう。それは大きないのちの芽生えだということになってまいります。

私は今日、そこまで皆様とご一緒に深く考えてみたかったのです。

 

と。一部抜粋にはなるが、このようなことを書かれていた。

 

 

感じるだろうか?  一期一会を。

 

今ここにいる自分も、出会った人も、この時間もこの場所も、今あるものは二度と来ることはない。

たとえ昨日出会った友でも、今日は今日の出会いがあり、昨日出会ったからといって同じではない。と。

はっとした。

私は、新しい人との出会いが一期一会だと思っていた。

 

だが、芯は、

出会う人は同じ人でも、その時そのとき、一瞬一瞬での出会いがある。

 

と言っていたのだ。

 

今、この出会いがどれだけ貴重で、どれほどすばらしいものなのか。

その出会いが時を刻む。

 

出会い=別れ であるならば、

 

今この瞬間瞬間の出会いに

何を感じるだろうか。

 

これ以上の出会いがどこにあるだろうか。

 

と。

 

ここまで、出会いというものが素敵なものだということに、

どうしたら気づくことができたのだろうか。

 

どうしても同じ人と出会うより、違う人と出会いたい

違う価値観と出会いたい。

そんなことを人は思い、(特に昔の私はそうだった)

いろんなところに顔を出す。

 

だが、同じ人に、同じ場所にも、

一期一会はあるのだ。

 

そして何よりも、

自分との出会いこそが一期一会だと。

これほどまでに美しい出愛があるだろうか。

 

おじいちゃんが、

小さい頃から毎日のように般若心経を読んでいたわけをここに感じた。

そして私がなぜか小さい頃から出会いを大切にしてきたことの1つが、お父さんお母さんだけでなく、おじいちゃんおばあちゃんから受け継がれてきたものがあることも知った。

 

祖父母と話した時間は少しだったけど、

すごく大切なかけがえのない時間を共にすることが、

私は何より幸せだった。

 

 そして、この出会いが、この9日間の出会いの濃さを物語っている。

 

一期一会。

あなたは今日、どんな出会いがありましたか^^?

どんなあなたと出会いましたか?

 

そのかけがえのない出会いを、あなたの心だけにとどめず、

ぜひ聞かせてほしいです^^

そして、あなたと出会いたい。

 

読んでいただき、ありがとうございました。